俺は何がしたい

30代男の日々感じたこと

無償の愛なんか求めるもんじゃない

最近、自分は幼児退行しているのかな、と思う事が増えた。ふいに泣きそうになったり、執拗に誰かに甘えたい気持ちになったり、無性に心細い気持ちになって年甲斐もなく「おかあちゃん」と呟く事が度々ある。

特に朝、仕事へ向かうときの胸中は寂寞に塗れていて、その感覚を言い得るなら、子どもの頃に保育園に置かれ母が恋しくてたまらなかったあの時の感覚なのだ。

正直に現状を言うと上手くいっていない。しかし、現状を打破して得られるであろう未来も希望とは程遠く、押すも引くもできないのっぴきならなさを毎日感じている。こういった面でのストレスは常時あり、それが幼児退行の一因になっているのだとは、思う。

しかし、よくよく考えてみると自分は根本的なところで、心の潜在的なところで、世間に対して誤った期待をしているのではないかと、思った。それはつまり、世間に対して「無償の愛」を求めているのではないかということだ。

仕事へ向かいながら母の優しさを求めるのは、無償の愛が職場には無いという欠乏がもたらす欲求なのではないか、誰かに甘えたくなるのは、世間一般が自分を不用意に甘えさせてくれないという不満がもたらす欲求なのではないか、という考えから、あらぬことではあるが「自分は世間や社会に対して無償の愛を求めていたのだ!」と気付き、そして落胆した。

もちろん頭ではそんなものを求めているつもりはなかった。カイジ利根川風に言うなら世間や社会は自分の母親ではないからだ。しかし、心は違った。いつでもどこでも誰に対しても、母親が与えてくれるような愛や安らぎや穏やかさを求めていたのだ。運命のような出会いがあれば、本当に適した場所に行けば、そういったものが得られるのではないかと、心は思っていたのだ。

しかし、断じて、このような欲求や期待を世間や社会に持つことは間違っている。決して満たされない欲求や叶わない期待を抱くこと自体が間違っているという訳ではない。無償の愛を世間や社会に求めることは単純に、一個体として一生命として、弱すぎるからだ。無償の愛は、返済不要の愛であるとも言える。つまり、これを求めることは、愛の乞食になるということと同義なのだ。皆が皆、愛の乞食になれば負債が膨れ上がりいつかは破綻するだろう。人類全体が不幸になる。だから、(本当に必要な場合を除いては)無償の愛を世間や社会に求めてはいけない。

ではこれからどうすればいいのかという領域までは、まだ思慮が及んでいない。どういう心持ちでいればいいのかも分からない。しかし、自分が無償の愛を求めていたと分かり、それを諦めようと思ったとき、心が何かから解き放たれるように軽くなったのもまた事実である。未練が断ち切れた感覚にも似ている。さあ、明日から何を求めてどうやって生きていいこうか。いや、生きていけるのだろうか。またあのどうしようもない寂寞はやって来るのだろうか。また母の所へ逃げ帰りたくなるのだろうか。分からない、分からないけど、今までのような期待はない。故に今までのような失望もない。きっと。

 

新しい景色が見られますように。

困ったねぇ

常時、何かに対して嫌だなと思い続けられるなら、それは紛れもなく「嫌い」なのだから離れたらいい。たまに嫌なことが悪くないかなと思えたりするから、本当に自分はここにいていいのかどうなのか迷ってばかりになってしまう。

 

「絶望」というと大袈裟かも知れないけれど、時たま大きな絶望感に襲われることがある。それは明け方目が覚めたときであったり、出勤中の車内であったり、黄昏の夕闇の中であったりと。この「絶望」というのもいつも感じている訳でない。時たま来るから嫌なのだ。(─この絶望感に襲われる時、特に資本主義原理に則って生涯を過ごさなければならないこの人生を呪うことが多い)もし、この絶望感を常時感じるのなら、それを情熱に転じて政治的な活動でも始めるかも知れない、もしくは本当に絶望しきって何もしなくなるとう選択肢もあるかも知れない。しかし、その絶望を感じることも束の間であるので、結局のところどうしたらいいのかも、どうしたいのかも分からないのだ。

 

人は悩む生き物だという。迷う生き物だという。考える生き物だという。誰も皆、そんな葛藤の中ぎりぎりで正気を保ちつつ、何とか二本足でぶんばり立っているのだろう。迷った先に、悩んだ先にある答えが正しいとか幸せとかは分からない。辛いよな、きついよな、苦しいよな。どうしようかね、困ったね。

 

俺は俺自身のこともよく分からないけど、頑張って考えてこの問題に答えを出そうと思った。

死ぬということ

死というのは動詞であったり名詞であったり形容詞であったりするが、言葉の様相が多彩なくせに人間にとって限りなく不可知なものである。ので、死ぬと無に還るのか、次の生が始まるのか、はたまた霊界やらにいくとか、人生はただの夢だったとか、シュミレーションゲームだったとか、、、死んだあとは想像の余地しかなく、どうなるかなんて可能性は無限大と言って差し支えない。

 

だから、死に対する価値観は様々である。「死んだ後ってどうなるのかな!?」なんて楽しみにしてる人もいれば、「自死こそ理性的な人間である証だ」とか「戦いで死ねば天国へいける」なんて勇んで死に向かう人もいる、「死んだら楽になれる」と言う人にとっては救いなのだろうし、死の先に「愛」を感じる人もいるだろう。

 

ただ、一般的に、やはり死は怖い。

 

理性や想像が介入しない死は圧倒的な恐怖をはらんでいる。これは本能として拒否しているのだから仕方ない。だから、普段私達はあまり死ぬということについて考えたくないし、触れたくないし、見たくもない。

 

でも、生きていればいつかは必ず死に直面する。死んだ後のことは知らないけど、この人生には必ず終わりがやって来て、生まれてから現在進行形で継続しているこのストーリーにはいつか幕が降ろされる。これは、もう明日の予定よりも確実、老後の生活よりも切実、今生きていることより現実的だ。だからこそ、たまには死を、つまり人生のエンドシーンを考えることが必要だと思う。どんな結末を迎えたいかというイメージは、これから生きていく様々に意味をもたらしてくれるに違いない。

 

自分の場合は、ぼんやりとしたイメージだけど妻(想像)が隣にいて、やれ子供たちがあんな活躍をした、やれ孫たちが学校に通い始めた、などと話をしており、そうかそうかと答えているうちに眠くなってきて、部屋には穏やかな冬の午後の陽光が差し込んで、妻(想像)が優しく微笑みかけてくれて、その手が温かくて、安心して眠りにつくように逝きたいな、などと考えている。

 

ありきたりかも知れないけど、これを実現させようと思ったならそれなりの努力と勇気が必要だ。今。

 

くだらない日々を過ごしているなと思うけど、たまに絶望するときもあるけど、こんな夢に向かって生きているのだと思えば、生きるということに意味が芽生えるのかも知れない。

 

運動しようか迷ってる

筋肉痛が二日後に来た。

いよいよ歳を取ったなと感じたが、ネットで調べてみると筋肉痛が出るタイミングってトレーニングの内容によって前後するらしい。

 

ほんとにそうか?

 

なんだかそんな情報で安心してはいけない気がする。年々傷の治りは遅くなるわ、顔は老けるわ、髪は薄くなるわで確実に体が老いて死への道をひた進んでいるのは確実だ。覇気もなくなったし元気もないしで、戒めとして歳を取ったことを自認しなくてはいけないな。

 

正月が明けてから妙に体がだるいので、少し運動を始めてみた。ランニングやらウォーキングやらバーピーやらその時の体調や天候に応じてそれなりに。

運動すると体から脳に刺激がいって、脳も若返るらしい。確かに運動した翌日なんかは気分が良いし、漫然とした「面倒くさい」が軽減されているような気がする。

 

今日は休みなので運動しがいのある日ではあるけど、如何せん筋肉痛なんだよな。どうすっかなー。。。

 

あくまで経験則として気分が晴れやかになるような運動って継続すればするほど減っていくと思う。毎日運動してると疲労のストレスの方が大きくなってくるんだろうな。

 

さて、今日はどうすっか。

 

このまま家でぐだぐだしててもきっとパチンコに行って終わりだろうから、散歩がてら走ってくるかー。

 

よし、行こう。

友人と飲みに行った

昨日は久しぶりに学生時代の友人と飲みに行った。大学の頃から定期的に飲んでいる仲だから、もう10年くらいの付き合いになる。

 

この友人とは良いときも悪いときも時間を共有していた。お互いに無職時代の頃は朝まで酒を飲みながらSkypeで語り合ったし、就職してからも「仕事終わりのビールは最高!でも働きたくない!」などと居酒屋でくだをまいたものだ。気心の知れた数少ない友人のひとりなのである。

 

昨夜もいつもの通りくだらない会話をし続けたが、私が今の生活について不満を洩らしているときに「なんでもいいから目標を持て」と中学校の先生みたいなことを言われた。この言葉に私ははっとしてしまった訳だ。子供時代には耳にタコができる程言われ続けた言葉だが、この歳になってそういうことを言ってくれる人間はなかなかいない。というか、この言葉自体「お前には目標がない」と宣言しているようなもので、大の大人相手にはなかなか言い難いものだ。あえて言ってくれたのは、私のことをよっぽど思ってくれたからこそであろう。

 

そして彼の洞察はかなり的を得ていた。私は「目標」という言葉を忘れてしまうくらい目的意識なく日々を過ごしているのだ。風に流される風船のような日々に張り合いなんか出る訳ない。素直に何か目標を持たなきゃなと思ったよ。

 

昨夜は居酒屋に2軒行ったあと、初めて「相席居酒屋」という所へ行ってみた。女の子と相席してお酒が飲める居酒屋だ。ただし、女の子の食事代は男が持たなくちゃいけないというシステム。

 

入店してすぐに女の子ふたり組と相席できたが、時刻は0時近くになっており、見知らぬ女の子と盛り上がるほどの元気がすでになかった。もともと私も友人も人見知りであるため、淡々とビールを流し込むだけ。ときおり発生する「テーマパークについて」やら「学生時代の過ごし方」とかいう当たり障りのない会話は盛り上がることもなく消化され、テーブルには冷めた空気が流れ続けたのであった。

 

さっきの話と重なるが、私たちの失敗はまさしく目標がなかったことに尽きる。例えば、「知らない子と連絡先を交換したい」とか「居酒屋から連れ出して一緒に遊びたい」とかいう目標があればその目標に突き進めたのだが、そういうつもりは全くなく、「なんとなく」の入店であったため、頑張りのひとかけらも出せなかった。

 

しかし、私は実はまた相席居酒屋に行きたいと思っている。それは、お互いが見知らぬ客同士というシチュエーションが面白いなと思ったからだ。もてなすでもなく、もてなされるでもない関係性において他人とどうコミュニケーションを取るか、というのは今までになく新鮮である。そこには「相手と無駄な会話はせず料理と酒をメインに楽しむ」という選択肢や「自分の思っていることをとりあえず聞いてもらう」という選択肢、それに「他人と盛り上がるための練習」という選択肢もある。所詮「居酒屋」なのだから相席した相手に失礼のない範囲であればどう使おうが自由なはずだ。それに他人であれば嫌われようが失うものも少ない。思う存分「コミュニケーション遊び」を堪能すればいいだけなのだ。

 

早速、友人にまた相席居酒屋に行きたい旨連絡したいところだが、昨日の今日でまた酒飲みの話では彼の二日酔いを悪化させてしまうような気がするので、近日中は控えておこうと思う。

バーベキューでトースト

 

実家の庭でバーベキューをするのが好きだ。昨日もいつものように七輪を出し、ひとり優雅に肉を焼き食らっていた。

 

そんな時、母がひょいと顔を出し「これも焼いといてくれ」と渡されたのは一枚の食パンであった。食パンを七輪で焼くというのは完全に想定外であったため、うまく焼けるか心配したが、意外ときれいにそして早く焼き上がった。

 

焼き上がったパンを渡すと、母はそれにママレードを塗りむしゃむしゃと食べ始めた。私は「たまに小粋なことをするよな、この母は」と思った。

 

味見にとパンの一片をもらい食べてみたが、これがなかなかに美味い。トースターで焼いたものとさほど遜色なかった。それに、備長炭でパンを焼き、野外でトーストを食べるというシチュエーションの新鮮さもあってか、何やら特別な物を食べているような気分になった。

 

「意外とうまく焼けるもんだね」と言うと、「当たり前だ。トースターがなかった頃はフライパンでパンを焼いてたんだ」と母。なるほど、これが年の功というやつか。いや、ちょっと違うか。

 

何にしても、バーベキューでトーストというのは新たな発見であったので、今後どのように調理しようかなと考えてみた。グーグルで調べればその類のレシピが出てくるのだろうが、検索してしまってはつまらないのでやらない。

 

・輪切りにしたフランスパンを焼き、それにバターを塗り食べる。バーベキューの中盤のブレイクタイムにいいんじゃないかな。何の変哲もないからこその安心感がある。あわせて飲むのは白ワインかな。コーヒーでもいいかも。

 

・食パンをピザトーストにして食べる。食パンのうえにトマトソース、チーズ、パプリカ等を乗せてアルミに包んで焼く。チーズが溶け出した頃にアルミを開封してパンをさぼせばある程度カラっといけるんじゃないかな。

 

・これはもはやトーストではないけど、フランスパンにオリーブオイルをかてけ食べるというもの。まず、ダッチオーブンにオリーブオイルと刻んだニンニクを入れて温め、そこに切れ目を入れたフランスパンを投入する。切れ目に生卵を投下したら温まったオリーブオイルをパンにかけて、卵に熱を加える。黄身が半熟になったくらいのタイミングで引き上げ、それを食べる訳だ。これは、以前テレビでスペイン人シェフが思い出の家庭料理として紹介していたものだ。フランスパンとオリーブオイルの相性は抜群なのできっと美味いだろう。

 

以上がぱっと思い付いたバーベキューでのパンの楽しみ方である。炭火でうまくパン料理ができるようになったら友達にも振る舞ってみようと思う。自慢気にね。

 

バーベキューはちょっと洋風なことをすれば「こいつはなんておしゃれなんだ!」と一目置いてもらえる特別な舞台だ。例えそれが三十代独身男性が朝食で食べるような野暮ったい料理だったとしても。

車をぶつけた

会社で失敗をした。社用車をぶつけて一部分をヘコませてしまったのだ。幸い人身事故にも物損事故にもならなかったのが救いだが、これで精神的に参ってしまっている。

 

この程度の事故と自分で言うのは些か気が引けるが、この程度の事故、もし他人から聞かされた話なら「そういう時もあるよ。気にするなよ」と軽々しく励ますだろう。でも、いざ当事者になると、この程度の事故は心に重く伸し掛かる忌々しい事件なのだ。

 

まず、事故というのは殆どの人の場合、気の触れた享楽者でもない限り自ら進んで起こそうとは思わない。事故を起こさないという意識を多かれ少なかれ持っている者からすれば、事故は自分の意としない結果なのだ。

 

なので、事故をしたその時、当事者は「不意打ちにあった」ような感覚を覚える。視覚の死角と意識の死角とを同時に突かれた結果、事故が発生するからだ。

 

この「不意打ち現象」が思いのほか厄介で、トラウマとまではいかなくとも、私は心に大きなダメージを与えられた。

 

想像して頂きたい。夜道をなんの気無しに歩いているとき、暗がりから突如振り下ろされた木刀で脳天をぶたれたとしたらどうだろう。一瞬なにが起きたか分からずに唖然とし、その次に痛みを覚えつつこの状況に恐怖し、逃げ帰った後は「二度とあんな道通るか」と心に決めるだろう。不意打ちというのは、命の根幹を司っているであろう本能にまで届かせるショックがある。いくら理性的に「夜道で木刀でぶたれる確率」を計算して、その確率の低さを弾き出そうとも、怖いものは怖いのだ。

 

そういう訳で、不意の事故を起こしてしまった私は運転が怖くなってしまったのだが、それでも仕事なので運転をやめることはできない。

 

このショックはいつまで続くのだろうか。仕事中、運転すると人の10倍くらい疲れている気がする。荷台に積んだ荷物の揺れる音にも「何かにぶつかったか!?」と過敏に捉えるようになってしまっている。仕事のあとはもう本当にふらふらだ。気持ちがすり減っているのが明らかに分かる。

 

このナイーブな状態、いつまで続くの。。。

 

車体の傷は板金屋で直せるが、心の傷はどこに行っても直せない。

 

これからは人様の事故の話、もっと真摯に聞こうと思う。