俺は何がしたい

30代男の日々感じたこと

晩夏


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夏休みが終わるね。

 

学生でもあるまいし夏休み期間が終わろうが関係ないけど、一抹の寂しさを感じるのは何でだろう。

 

夏の思い出というと、それなりに色々な思い出がある。祖父の家の雑木林を探検させてもらったこと、くそ暑い昼下がりに友達とチャリで海に行ったこと、親戚の家に泊まらせてもらったこと、親父とクーラーのがんがん効いた部屋で将棋したこと。

 

もうその殆どに今は手が届かない。

 

もうあの頃の夏は帰って来ないんだ。

 

この事実は紛れようもなく、感傷に浸ろうとすれば虚しい気持ちが込み上げてくるけど、よくよく考えれば人も時代も自分も変わって行くなかで、遠い少年の日の憧憬に胸焦がし続けるなんて後ろ向き過ぎる。

 

きっともう、バトンを受け渡す側になってしまったのだ。子供時代の夏の思い出は、大人が守ってくれたから、時間を割いてくれたから、金を使ってくれたから体験できた素敵なプレゼントだったんだ。

 

今はきっともう、自分が貰う側から与える側になったんだ。「子供時代の夏は最高」って信条が自分の中にはある。この信条を今の子供たちにも持ってもらえるよう、今は自分が与える側に回ったのだ。

 

と言っても、子供がいる訳じゃないので、せいぜい甥っ子たちが遊びに来たときに構ってやることくらいしかできない。

 

まあ、それでもいいかな。何年後かに甥っ子たちが俺と遊んだ夏を思い出して「よかったな」って少しでも思ってくれたら、少なからずこのバトン回しは成功してるんだ。

 

少し前まで、二十代半頃までは「自分が自分が」だった。でも、今はそれだけではちょっと退屈に思えてしまう。「自分が自分が」では単純につまらないのだ。自分を満足させるだけというシンプルなルールに飽きてしまったのかも知れない。

 

さて、もうそろそろ夏は終わってしまうけど、次の季節には一体何が待っているのか少しだけ楽しみにしてみようと思う。

 

でも、やっぱり寂しい。

 

夏の田園を駆け抜けてまた皆で海に行きたいな。

つまらない

自分が半透明になっているような気がする。日々の様々に対する率直な感想は「どうでもいい」が殆ど。生活の殆どがすごくどうでもいいのだ。

 

消去法的に生きている。あれもしたくない、これもしたくない、けど暇だからこれをしよう、みたいな。根拠に好奇心や欲求や理想がないから、手にするものが抜け殻のように軽くて意味がない。

 

かと言って、ネガティブということもなく、憂鬱でもなく、淡々と日々を消化している。好きの反対は無関心というが、日々に対して無関心になっている。

 

嫌なことは、ある。けど、全てが芝居の中のような茶番に思えてしまう。これはきっと生き死にから遠く離れた出来事だから。多分、自分は連なりの中に死を見出だせないと本気で生きられないんだと思う。

 

大切なものは、ある。けど、諦めている。様々は時の流れと共に朽ちる。愛した人も友人も家族もいずれ朽ちる。自分もいつか死ぬ。大切なものを手放したくない、守りたいという気持ちは存分にあるけど、大きな時の流れの中ではそれらの存在も瑣末でしかない。

 

全て無に帰す真理のなかで様々は茶番だ。しかし感情は動く。ならばこの茶番ですべきことは感情を守ることだ。上がらずとも下がらない平常を保つことが優先すべきことだ、とか言い出すからつまらなくなる。

 

生きてる意味は何か。ここからは人生の極秘会議の審議を諮らねばならない。「生きている手応え」を感じるには資本主義の神様に心を売らなければならない。虫や木々や風と共に得る心の充足はこの社会では役に立たない。そんな深みに嵌まれば落伍者になってしまう。ゆくゆくは世捨て人だ。しかし、逃げ場所なんかない。何故なら社会を知ってしまっているからだ。

 

若さのベールを剥がされて、こんなに空っぽな自分だけが残った。つまらない。つまらない。ああ、つまらない。

花火大会へ行ってきた

昨夜は地元の花火大会へ行ってきた。駅からシャトルバスに乗り込み会場へ。地元ではめったにバスなんか利用しないので、車窓から眺めるいつもの景色も新鮮に感じられた。

 

会場に到着すると色鮮やかな花火が音楽に合わせて夜空に瞬いていた。大勢の人が空を見上げながら夜道を行く。この街にはこんなに人がいたのか。皆いつもどこで何やってるんだろう。

 

花火会場で見る花火は見事で思わず感嘆を漏らしたが、子供の頃に花火を見たときの感動とは程遠かった。あの頃の興奮は一体何だったのだろうか。何で今はこんなにも様々が色褪せているんだろう。大人になるに連れて自分の感情を抑え込むことに慣れてしまったのかな。そうやって生きてきてしまったから、感情を動かすことが怖くて自然と出来なくなってるんだ、情けない。

 

帰り際に夕飯も出店で買っちまおうと適当に覗いた屋台は、偶然にも行きつけの居酒屋がやっていたものだった。向こうもこちらに気付いてくれて軽く挨拶を交わす。かなりサービスしてもらっちゃった。ありがたい。

 

私が暮らしている街の人たちは、普段は関わりの無い人たちばかりだけど、きっとどこかで繋がり支え合っていたりするんだろうな、知らぬうちに。多くの人が空を見上げて、あの花火を見て、遠からずとも同じような気持ちになっていたのかなとか考えると、街がひとつになったようで感慨深い。

 

もう会ってない友達とか、昔別れた彼女とかも昨日の花火見てたかな。今は離れててもあいつらともどこかで繋がってんだろうな。

 

直接は難しいけど、一生懸命生きることで間接的にでも何かしら恩返しになったらいいなと思う。

 

そんな感じでやっていこっと。

8月11日(土)RIJFに行ってきた


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昨日はROCK IN JAPAN 2018に行ってきた。先週、彼女と週末何するか話していたとき、8月11日のチケットだけ売れ残っているのを発見したため、急遽参加することにしたのだ。

 

当日は朝8時に起きてゆっくりと出発。9時半には勝田駅に到着したが、ここからシャトルバスに乗車するまでの列が長く、会場に着いたのは開演の10時半前。

 

雨の予報もあったが、会場に到着したころには晴れ間が広がり、日差しが痛い程に暑い。とりあえずゴールデンボンバーを観ようとグラスステージの方面へ。早めにシートを敷いて荷物を降ろしたかったが、彼女がどうしても早く観たいと言うため、重い荷物を背負いながら後ろの方から観た。

 

3年ぶりくらいのロッキン参加になるけど、相変らず朝一のグラスステージの音量は控え目。音楽的には普段からゴールデンボンバーを聴いている訳でないので、よく分からなかったが、ショーとして観る分には楽しかった。テレビで観ていたとおり花のある四人組だと思う。結構笑った。

 

その後、シートゾーンに荷物を降ろし、バドワイザーを買って乾杯。ロッキンの空気の中、青空を見上げて飲むビールは格別だ。

 

そうこうしているうちに、ももいろクローバーZの演奏が始まる。ももクロも普段は聴かないので曲は知らないが、歌も振り付けもバンド隊も素晴らしく、貫禄があった。やっぱりプロだ。

 

オフィシャルTシャツを買って、簡単に昼食を済ませ、ヒルサイドステージでビッケブランカを観る。

 

良いライブやってたなー。ビッケブランカは事前にYouTubeで少し聴いただけ何だけど、音源よりライブの方が俄然よかった。音楽にときめきがあったし、自然が似合うアーティストだったな。青空とか風とか日差しとかが音楽と一緒になってた気がする。

 


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そのあとは、出店のご飯食べたり、ビール飲んでうろちょろしたり、海浜公園のアトラクションで遊んだりして16時くらいに会場を後に。最後までいたかったけど、帰りの混雑を考えると体力が持たなかった。。。

 

帰りに地元の居酒屋で乾杯。一日外にいるとやっぱりご飯が美味しいね。二時間ほどロッキン談義をし、夜道をとぼとぼ歩いて自宅へ帰る。フェスって、そのあとの出来事も不思議と楽しく感じられるよね。楽しいことってきっと連鎖していくんだと思う。

 

そんなこんなで、数年ぶりのロッキン参加は大成功。来年もまた行きたいな。

 

俺はもう若くない

30歳で転職をし新入社員となり、一回りも違う二十代前半の面々と同期になった為勘違いしていた。

 

新入社員の利を活かし悠々と定時退社し、判断は人任せにし、同期と共にくだらない愚痴で笑い合っているうちに勘違いしていた。

 

私は、若者なのだと。

 

しかし今日、目が覚めてしまったのだ。私は若者ではない。昭和62年12月生まれの30歳8ヶ月。立派な中年だ。

 

年齢で自身を測ることは浅はかだし、青春はきっと死ぬまで訪れるし、可能性は諦めた奴から失っていくんだと普段から自分に言い聞かせている。

 

だけど、それはいつまでもティーンエイジャー気分でいようとか、ピーターパンシンドロームを肯定するとか、モラトリアムの中で生きようとか言いたい訳ではなく、人間も生物なのだから年齢に応じた衝動や意志があると思うんだ。それに正直に生きた方が気持ちいいよなという意味合いである。

 

そして私は辟易してしまった。新入社員として迎えられている空気に甘ったれている自分に。

 

そういうことじゃないでしょ。今やりたいことは。

 

人間は気を抜くと楽な方ばかりへ向かってしまう。しかし、それは習性であり意志ではない。

 

自分を満たす為には今なにが必要かしっかり見極めてやってこーと思う。

 

サッポロ WHITE BELGを飲む


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サッポロのホワイトベルグを飲む。

 

この商品、通販サイトでの評価が高かったので、まとめ買いした物。24本を2ケース、計48本を購入した。

 

「フルーティー」「爽やか」などのフレーズが商品に記載されているが、それは当て嵌まらないな、という印象を受けた。

 

まず、「フルーティー」でない。含有されているコリアンダーシード、つまりパクチーの香りはエスニックでスパイシーな印象だ。

 

それに香りのせいか、「爽やか」というよりは密教の祭典で振る舞われる酒のような「いけないもの感」をどうしても感じてしまう。

 

この商品は、文字のキャッチコピーを鵜呑みにしてはいけないと思う。この味を「爽やかでフルーティー」のカテゴリに押し込むのは私の味覚嗅覚の素養からすると、ありえない。

 

それよりも良く出来ているなと関心したのは、パッケージデザインの方だ。

 

舌を出している動物はどうやら「酒を煽っているライオン」らしい。うん。何だかそんな感じがする。そして、商品のメインカラーであるエメラルドのような深い緑。これもまた味にぴったりのカラーだ。

 

この商品の購入を検討している方は是非、タレコミや売り文句でなく、見た目で判断して欲しい。酒飲みは、酒を買うときその酒を飲む情景を想像するものだと思う。その情景にこのパッケージは溶け込んでいるか、相容れているか、それが肝心だ。

 

キャッチコピーを鵜呑みにした私は、少し後悔している。想定していた面持ちでこのビールは飲めないかったからだ。

 

しかし、不味い訳ではない。このビールを飲むときの自身のスタンスを変えれば充分に楽しめる。仕事終わりの我が家ではなく、異国のバカンス気分で残り40本ほどあるホワイトベルグを楽しみたいと思う。

月曜日の朝の憂鬱

月曜日の朝は、打ちのめされた気持ちになる。大概、日曜の夜は飲み過ぎてるから、アルコール由来の絶望感も相まって最悪だ。

 

もうこういうことを何度繰り返しているだろう。いつから月曜日が嫌いになっただろう。

 

思えば、小学生くらいの頃からだ。

 

あの頃から月曜日は嫌いだった。何故なら、なりたくない自分にならなくてはいけなかったからだ。

 

小学生当時、本当にやりたかったことは家族と一緒にいたり、友達と冒険したりサッカーをしたりすることだった。

 

しかし、学校ではそうもいかない。

 

先生

の目の届かない所へは行けないし、子供ながらに先生の機嫌を取る必要性も理解していたつもりだ。

友達間だって複雑だ。相手の求める自分を演じつつ、距離感をはかり、仲間はずれにされない為の気遣いも欠かせない。

 

あれ?

 

これって大人の社会でも同じなんじゃないかな。

 

そうなのだ。私は小学生の頃から、目上の人の機嫌を取ったり、友達に気を使ったり、やりたくないことをずっとやっていたのだ。

 

自由気ままでは生きていけないとある時に悟り、以来ずっとなりたくもない自分になっているのだ。月曜日が来る度に。

 

しかし、これらの制約はいわばマイルールである。

 

例え指導されることはあったとしても、他人に気を使って生きていかなければならないと明記されたルールなんてない以上、これは完璧なマイルールなのだ。

 

極端な話、上司の機嫌なんか伺う必要も、同僚の冗談に付き合う必要も、そもそもやりたくもない仕事をやる必要もないのである。

 

マイルールによって月曜日が嫌いになり、マイルールによって憂鬱になっている。それももう何十年も、ずっと。これは、ちょっと滑稽な話ではないか。

 

そうは言っても、大多数の人間は関係性の中でしか自己を見出だせないものである。ましてや、大人になるまで集団に属し続けてきた人間に「その習性やめろよ!」と発破をかけるのも酷な話だ。

 

そもそも人間はどこまで行っても他人からは逃れられない。

 

それならば、月曜日の憂鬱の処方箋とまではいかなくても、「この憂鬱はマイルールのせいだ」と居直ってしまった方が楽だと思う。

 

あなたがあなたのマイルールを破ったとて、さほど咎められないと思うし、そもそも誰も気付かないと思うよ。