死ぬということ
死というのは動詞であったり名詞であったり形容詞であったりするが、言葉の様相が多彩なくせに人間にとって限りなく不可知なものである。ので、死ぬと無に還るのか、次の生が始まるのか、はたまた霊界やらにいくとか、人生はただの夢だったとか、シュミレーションゲームだったとか、、、死んだあとは想像の余地しかなく、どうなるかなんて可能性は無限大と言って差し支えない。
だから、死に対する価値観は様々である。「死んだ後ってどうなるのかな!?」なんて楽しみにしてる人もいれば、「自死こそ理性的な人間である証だ」とか「戦いで死ねば天国へいける」なんて勇んで死に向かう人もいる、「死んだら楽になれる」と言う人にとっては救いなのだろうし、死の先に「愛」を感じる人もいるだろう。
ただ、一般的に、やはり死は怖い。
理性や想像が介入しない死は圧倒的な恐怖をはらんでいる。これは本能として拒否しているのだから仕方ない。だから、普段私達はあまり死ぬということについて考えたくないし、触れたくないし、見たくもない。
でも、生きていればいつかは必ず死に直面する。死んだ後のことは知らないけど、この人生には必ず終わりがやって来て、生まれてから現在進行形で継続しているこのストーリーにはいつか幕が降ろされる。これは、もう明日の予定よりも確実、老後の生活よりも切実、今生きていることより現実的だ。だからこそ、たまには死を、つまり人生のエンドシーンを考えることが必要だと思う。どんな結末を迎えたいかというイメージは、これから生きていく様々に意味をもたらしてくれるに違いない。
自分の場合は、ぼんやりとしたイメージだけど妻(想像)が隣にいて、やれ子供たちがあんな活躍をした、やれ孫たちが学校に通い始めた、などと話をしており、そうかそうかと答えているうちに眠くなってきて、部屋には穏やかな冬の午後の陽光が差し込んで、妻(想像)が優しく微笑みかけてくれて、その手が温かくて、安心して眠りにつくように逝きたいな、などと考えている。
ありきたりかも知れないけど、これを実現させようと思ったならそれなりの努力と勇気が必要だ。今。
くだらない日々を過ごしているなと思うけど、たまに絶望するときもあるけど、こんな夢に向かって生きているのだと思えば、生きるということに意味が芽生えるのかも知れない。