俺は何がしたい

30代男の日々感じたこと

働くということと勇気について

週末の休みまであと何日かと指折り数えながら日々を過ごす虚しさたるや、何のために生まれて来たのかと自問し心が屈折しそうになる。

 

まず、この曜日数えが始まったのが小学校低学年の頃であった。もうすでに学校に行きたくなかった。このまま大人になっても曜日数えを続けるのかと考えると、人生は絶望でしかなかった。

そして今、あの頃の予感は見事的中し、曜日を数えながら仕事に従事するという最もなりたくなかった、最も忌み嫌っていた大人になってしまった。

 

もちろん、流されるままこんな日々に辿り着いた訳ではない。なりたくないものに素直になれる訳もなく、私にはトータルで2年程のニート期間がある。

 

結論から言えば、無職として生きていく為にはかなり特殊な才能が必要だと思う。

それは無職期間に「自分の人生を全うしていない」という感覚を持たないという才能だ。

 

ちなみに、働いて資産を築き早期でリタイアした方や、人生の計画において敢えて無職期間を設けている方、また働きたくとも家庭の事情などで働けない方などはこの限りではないと思う。

 

私は社会と向き合いたくないばかりに無職になった人間なので、最初の数週間は良かったがその後はずっと「俺の人生これでいいのか」という感覚がずっと心の奥で淀んでいた。

つまり、自分の人生と向き合った結果としての無職と、臆病の結果としての無職とでは全然違うのだ。

 

もちろん、どのような形で無職になったとしても誤魔化しもなく平然と過ごすことができる人もいるだろう。しかしそれは、かなり特殊な才能を持った人間だと、私は思う。

 

さて、そんな私ではあるがトータル2年のブランクを持ちつつも、何とか就職活動をこなし、今は健気に働いている。

最後のニート期間が明けてから、継続して4年くらいは働いているかな。転職もあったけれど、前職では有給消化が認められなかったため(おかしな話だ)、実質の空白期間もない。

晴れて私も真っ当な社会人に生まれ変わったのだ、万歳万歳。という訳ではなく、全くもって面白くない日々が4年間も続いている訳だ。三つ子の魂百までとは言うが、根本的に私は小学校低学年の頃のままだ。先に言ったとおり休みまでの指折り数えをもうずっとやりながら働いている。

 

無職の才能もない、仕事の才能もない。正直、もうどうすりゃいいんだ状態なのである。

 

しかしながら、少しだけ分かってきたことがある。無職期間を脱出するときや、転職するときは、それなりに勇気を出した。

なので、ほんの少しだけ「やってやった感」があるのだ。人間、勇気を出して掴んだものには、それなりの自負を感じる生き物のようだ。

 

やっぱり、無職から抜け出すのは怖かったよ。空白期間のある履歴書を提示するのも勇気がいった。

 

仕事は楽しくないけれど、臆病に負けていた無職期間よりはいくらか人生を掴んでいる感覚がある。人生って、小さくてもいいから勇気を出せたかどうかで、かなり色合いが変わってくるんじゃないかな。

 

ちなみに、さっきから勇気勇気と言っているが、勇気と無謀は違うものだ。

例えば、職場の環境が劣悪な場合でも勇気を出して勤続した方がいいなんてことはない。

 

勇気というのは、自分の心と体を守ることが前提であり、それらを危険に晒すのは勇気でなく無謀なだけだ。

 

心と体がSOSを発し始めたら、是非、勇気を出して今すぐにでも逃げ出して欲しい。

 

あなたは自分で決めたルールに縛られ過ぎてるだけだよ。

 

あれ?これなんて作品の誰の台詞だっけ?

 

さてさて、本当に退屈な日々ではあるけれど、自分の選択が臆病に由来するものか、勇気に由来するものか見極めて、なるべくは楽しく過ごしていきたいな。

 

できるだけ勇気を出して手にしたものに囲まれて生きたい。

そして、捨てるときは勇気を出して捨てる。

株の損切りみたいにね。